やさしさに包まれたなら
今日の朝、石川からきていたおじいちゃんとおばあちゃんが帰っていきました。
僕の身内は本当に「優しい」人たちばかりだと思います。
小さい頃から友達の家族の話を聞いていてそう思うようになりました。
中でも石川のおじいちゃんとおばあちゃんは本当に優しい。
そんなおじいちゃんおばあちゃんの優しさを前にすると、いかに普段くだらんことでイラついてしまっているかに気づかされます。
普段は多少感情に出してしまうようなことが起こっても、おじいちゃんおばあちゃんの前だと「こんなことで怒る姿を見せて悲しませたくない」という気持ちが働き、我慢することができるんですよね。(今はもう普段から感情に出したりはしませんが。中高生の頃は結構感情に任せてきついことを言ったりもしていました。)
おそらく中途半端な優しさではこうはならないと思うんです。
注意しながらも強く言われたら押し負けてしまうようなタイプの優しさなら、ただナメられるだけ。
どんなことをしても許してくれるような、ずっと自分の味方でいてくれるような、そういう無条件の優しさを感じて初めて「この人を悲しませるわけにはいかない」という感情になるのだと思います。
そして何より大事なのは、おじいちゃんおばあちゃんは意図的にこういう優しさを持っているわけではないという点です。
当人が言うことではないですが、おじいちゃんおばあちゃんが僕に無条件の優しさを振りまいてくれるのは自分の孫だからだと思います。
つまり、無条件の優しさを振りまける相手は無条件に愛せる人だけなんだと思います。これは全員一致の深イイ話やな。
一方で、僕自身はどうか。
僕は小さい頃から色々な人に「優しいね」と言われてきました。
しかし実際はとても自己中心的な性格です。
例えば、
優先座席にも普通に座るし、
教育の仕事を長い間やってきたが子どもに対して別にすごいと思わないことに「すごいなあ〜」と褒めるということはしない。
要は、積極的に相手を喜ばせようとしないです。
じゃあ皆さんが僕言ってくれる「優しいね」はどういう優しさに対して言っているのか。
おそらく僕の優しさとは、受動的な優しさなんでしょうね。
僕は二人で話すとき、90%くらい聞き手側です。
相手からしたら自分のつまらない話を長々と聞いてくれることに「優しさ」を感じているのでしょう。
また、僕に対して結構いじってくる人もいますがそれに対して本気でキレない、そういう怒らないというのも「優しい」ということになるのでしょう。
つまり、僕が働きかけるのではなく、相手の働きかけに対する僕の反応が「優しい」。
さっきのおじいちゃんおばあちゃんは僕が別段何もしていなくとも優しさを振りまいてくれていたので能動的な優しさと言えるでしょう。
能動的な優しさは無条件に相手を愛することができないとなかなか難しいと思いますが、受動的な優しさはおそらく誰でもできます。
僕が「優しい」のは突き詰めると「嫌われたくないから」です。
別に相手の話聞くのが楽しくないわけではないですが、自分の話をしても相手はつまらないだろうと思ってしまうんですよね。
自分が話をして退屈されるくらいなら聞き手に回った方がいいやという気持ちがどこかにあります。
だから僕からしたら嫌われたくないという相手と話すときには自然と「優しさ」が出ます。
で、僕には「嫌われてもいいや」という人は残念ながら存在しないので結果的に受動的な優しさが振りまかれているんですね。
もちろん人によって嫌われたくない気持ちの大きさは違います。が、別にこの人になら嫌われてもいいやという人は一人としていません。
というわけで今回は優しさについて語りました。
まとめると、
- 優しさには能動的な優しさと受動的な優しさがある。
- 能動的な優しさは相手を無条件に愛せないと持ち続けることが難しい。
- 受動的な優しさは相手に嫌われたくないと思えば誰にでもできる。
ということですかね。
愛なき時代に生まれたわけじゃないので、いつかは僕も能動的にやさしくなりたいですね。